『人間を喜ばせるためのものでないとしたら書かれたり印刷される言葉は無意味です』
ルネ・マグリット(1898~1967)

『ステレオグラフ(立体透視画像)なセルフ・ポートレイトより』
私事にわたる事柄なので恐縮なのですが、このサイトについて語ろうとすると、どうしてもそれが外せないのです。 三年前、私は札幌でWEB制作と管理・運営の仕事に就いていました。そしてヒトカケラの予感さえも訪れることのなかった(なんたるウッカリ者なのでしょう!)私宛に突然その電報は届きました。
発信人には母親の兄の名前。
「ハハ クモマクシタ シュジュツ シキュウ レンラク コウ」
というカタカナの黒い文字がそこにはプリントされていました。
その電報を読んでいた時間から明かりの消えた故郷の実家にたどり着くまでの途中のことが、いまでも、よく思いだせないでいるのです。
たぶん人目のない場所では涙をとめられなかったのデス。涙ってとりとめもなく出るってことを、それまで知らなかったのです。(たぶん恋人を失ったときよりも)
「オレの方が先に逝ったら、お袋のことは頼むゾ」
五年前に亡くなった父親が、正月に帰省した時になにげなく洩らした、その一言だけが呪文のようにこだましていきました。
比較的発見が早かったためクリッピングという止血手術が無事成功して生命が逝ってしまうのは防ぐことができました。 母親の死という最悪のシナリオを避けることができたことに我知らず気がつくと父親の仏前で額を畳にこすりつけて何かに感謝をしている小さなチイサナ私がそこにいました。
手術直後の母親は、顔面こそぱんぱんに膨れてはいましたが、身体に麻痺などが残らずとても元気そうでした。
急きょ、東京から駆けつけた二人の孫娘たちに向かって 「おーす、来てくれたのか、スマンなぁ」 と幸福そうに手を振る母親の姿は順調な回復への期待さえ抱かせてくれました。
母の姉もクモ膜下で倒れはしたものの、無事社会復帰を果たして看護婦長として活躍した経緯があったものですから、ひょっとしたら母親も・・・ という希望は、施術してくださった主治医の先生から告げられた「出血から数日後より2週間目頃までの間に脳に広がった血液が分解される過程で、脳血管を収縮させ脳組織を破壊する「脳血管攣縮(れんしゅく)」が、これから起きてそれがどういう後遺症として現れるのかはわかりません」という説明をうまく受け止めることが出来ませんでした。
それは、しかし起こりました。
日を追うにつれて、母親は元気を失っていきました。脳を撮影した写真にも脳がダメージを受けつつある状態が冷酷に撮影されていました。
今、思えば、手術直後に孫を迎えられた日が、かつての元気だったころの母親の最後の姿だったのかもしれません。二ヶ月後病院を退院した後、リハビリテーションのために違う病院に入院して三か月、約半年をベッドで過ごした母親が自宅に戻ったのは一昨年のクリスマスでした。
しかし、希望に反して週三日ディサービスに通うようになった母親と私との生活は、日を追うにつれて無残な悪夢のような状態へと落ち込んでいきました。
あぁ・・・なんてことでしょう!
母親には日付や時間といった感覚が、全く無くなっていたのです。 月水金がディサービスだから、お迎えに来てくれる曜日は月水金曜日なんだよ、と何度、いい聞かせても毎日ディサービスの迎えを玄関に出て待っているのです。タクシーを見かけると乗り込んで施設に行ってしまうのです。 (自分の母親ながら、まったくたいした行動力と身体機能、と感心しないわけにはいきません。今でこそ、そう思えるものの、その当時の悲しみは圧倒的で無慈悲な暴力として私には機能したのです)
かつての母親を知っている”こども”としての当時の私は、そんな母親の現在の姿をどうしても心が受け入れてくれなかったのです。
ほんのささいな食い違いが、お互いがお互いを血相を変えて罵りあう感情爆発にまで至ってしまうのです。
見かねたケアー・マネージャさんが施設入所への手続きを取ってくれたことでお互いがお互いを、ほんの少しだけ優しい心で接することができるようになってきつつあるように思います。
母親の表情にもやわらかさと落ち着きが戻ってきて、なによりも自然にふるまえる(涙もろくなっちゃたけどね)距離を置くことでお互いをありのままの状態で受け入れることへの寛容さを過ぎていく時間がすこしづつもたらしてくれているように思えます。
そして、驚くべきことには母親は、自らの運命を受け入れて、まちがいなく成長をつづけていると私には思えるのです。少なくともあたしよりもまともで、いろんな機能を再生しつつある・・・やるじゃないか!
これで、このサイトの背景がわかってもらえたでしょうか。 このサイトは、実は母親に向かって構築されているサイトなのです。プリントアウトして母の部屋に貼るための 「日めくり」 を公開しているサイトなんです。
そのはじまりは東京都神社庁が配布していた「生命の言葉」に起源があるのですが、それはまた別の物語です。
少しだけ欲張って言ったら、そういう介護の現場にいらっしゃる方々への応援メッセージでもありたいと希望してあるのです。そして、これは私を支えてくれる人たちやこどもたちへのメッセージでもあるんです。ここでしぶとく、今日も生きているだよというしるしとして。
そして、この「日めくり」 から 「日めぐり」 へと変わっていった経緯は、まったく予想ができなかったことなのですが、実は製作者であるところの私自身を癒やすためのリハビリテーションとして機能するようになっていった変容の舞台でもありました。そんな作用がサイトに少しづつ変容を起こしている事実に徐々に気がついていった道のりの記録として「日めぐり」 へと向かう途上にあります。
ここまでテキストを綴ってきて 「あぁ、これって、なんのことはない間違いなくカミング・アウトになっちゃってる!」 と思います。タイプした私もとても疲れましたが、このテキストを目にされた方を疲れさせることになるではないか?と予想はできるのですが、これは何時かは必ず書かなくてはならない義務があたしにはあると思うのです。それを、いま、ここに書いたという試みなのです、このサイトのもともとの出発は"tryandgo”という名前でした。
可能なかぎり正直でなかったら意味をもたないでしょうから正直になろうとしています。ただ、それが成功しているかどうかは、よくわかりません。
ベストは尽したつもりです。
「闇の夜に 鳴かぬ烏の声聞けば 生まれぬさきの父ぞ恋しき」が解き明かそうとした「父母未生以前の本来の面目」に自分の解をつき止めつづけない限りきっと、またそこに戻ってきてしまうような堂々めぐりから私を解放してあげなくてはなりません。
だって、もし私がこのようなサイトを見かけたら、まちがいなくサイトのモチベーションと目的を明かしてほしいからです。私が恋するのは実在です。手が触れることのできる質です。クラウドコンピューティングという考え方には反対の立場なんです。
つまるところ 表現というのは感動です。
最後に、伊丹万作の戦争末期のテキストを引用させていただいて、突然のおしまいに代えさせていただきたいと思います。
お涙頂戴ありがとう。ペコリ
『思うに芸術の修行も要するに自己を鍛錬して、いかなる場合にもぐらつくことのない立派な余裕を築き上げることに尽きるようである。そして芸術の役割とは要するに人々の心に余裕の世界観を植えつけること以外にはなさそうである』
長文につきあってくださって、ありがとう! 文責:コザクラ 2009年戊午吉日
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